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深センの歴史
投稿者: Webmaster 投稿日時: 2008-9-12 9:00:00

深センの歴史は林立するビル群をみるにつけ、まだ20年足らずで浅いと思われがちだが、広く華南という地に目を向けてみるとその歴史は古く、夏や商時代(紀元前2000年)以前の旧石器時代にはすでに人が居住していた遺跡の出土によりその時代にまで遡る。

::古代百越時代::
中国最初の国家、夏やあるいは商といった古代国家が建国した当時、華南は百越部族が広く分布し、深センは百越の滞在地であった可能性がある。そもそも越人は南方の真珠、宝玉、象牙、タイマイ(亀)などといった珍品貴賓を売買し、東南アジアから中国本土にかけての広い範囲で交易を行うことによって潤っていた。その中継地として利用されたのが広州や珠海、深センである。

::秦の時代から南越国::
「史記」列伝、「准南子」などといった書物には、秦の始皇帝が越地方の犀角や象牙、翡翠、真珠といった南方の産物を好んでいたことから南方攻略を行ったことが記されている。紀元前214年、秦は南方攻略のため湖南と広東の省境に位置する南嶺を越えて越に攻め入ることが難航するとみるや湘江と〔サンズイに離れる〕江という二つの川を運河で繋ぎ、番寓(今の広州)を陥落せしめた。(中国史における運河建設の最初といわれている。)この時、南海、桂林、象郡の3県をおき、この地を開拓したという。しかし数年でその支配も終わり、南海郡の官吏に派遣されていた趙佗が独立し、紀元203年南越国を打ち立てる。

趙佗は南越の都を番寓(広州)として70年余りこれを統治。その後紀元前112年に越内で内乱が起こるとすかさず、漢の武帝は軍を派兵しこれを陥落。以後、南越は滅亡してこの地は漢の支配下になる。

::漢の時代::
紀元331年に6県を統括する東官郡が置かれる。この6県を統括すべき郡府として宝安があり、東官郡府が南頭(深セン)に置かれる。当時の宝安県は現在の深セン市、東莞、中山、珠海、香港を含み、この地区が歴史的にも最も早く国家行政の基盤を作り上げた。

::隋の時代::
魏晋南北朝時代の混乱が鎮まった隋の統治時代、紀元590年には東官郡を廃止して、宝安県を南海郡の所属に変更。県庁所在地を現在の深セン南山区にある南頭におく。この頃、中国国土が広まったと共に海からの来訪者を受け入れるようになる。東南アジア諸国、アラブ中東諸国と遣隋使を送った日本などである。番寓や珠海、深センの港に遣隋使の使節船が立ち寄ることもあった。

::唐の時代::
唐の統治時代、紀元757年には宝安県を東莞県と改称。深センにあった県庁所在地は東莞へ移動し、南頭には屯門軍鎮が置かれるようになる。この頃、唐は統治時代で最も隆盛していた時期であり、国土は中央アジアのオアシス都市にまで及び、天山ウイグル、甘州ウイグル、ダングートなどの内陸部交易商人が東西を行き交うようになる。また南の華南ではインド洋や南シナ海を渡って多くのアラブ人やペルシャ人が番寓(広州)を訪れるようになり、海のシルクロードといわれる南海交易ルートの重要拠点となっていた。これらの海上交易や海外交易を保護するために置かれた屯門軍鎮は、安南都護府の下、管轄地である今の東莞、香港、深セン一帯を守護とし、南の深セン南頭に城砦を築いてこれに応じた。

::宋の時代::
宋朝は唐の制度を踏襲したため、引き続き深セン南頭が軍鎮として機能する。後半、国家の政権は北の金の脅威を受け、南下し南宋を建てている。南宋の首都は臨安。最後の皇帝であった祥興帝は金の追撃から逃れるために、兄と共に陸秀夫に擁されて南下し、番寓(広州)を最後の拠点とする。しかし、金の追撃は激しく、臣下の陸秀夫はまだ6歳の幼い祥興帝を背負い入水。その遺体は今の深センの赤湾にたどりついたことから廟がある。(宋小帝墓)
深センは南海交通の戸口と軍事の要衝となっており、海上巡視のために南頭に軍を駐在させる。経済活動においては、絹の道(シルクロード)ならぬ陶磁器の道(チャイナロード)が盛んになるにつれ、真珠と牡蠣の養殖、製塩、香辛料といった品目の生産がされるようになる。紀元1195年には人民が勝手に塩を製造することを禁じ、所謂塩の専売を始めた。これにより製塩業者の武装蜂起が起こり、朝廷は鎮圧のために軍を派兵することとなる。

::元から明時代::
元時代には真珠の養殖が更に発展する。南山半島の后海(深セン湾)や大鵬半島の龍岐は著名な真珠の産地となる。明王朝が中国を統一した後の紀元1394年、現在の深セン地区内に「東莞守御千戸所」及び「大鵬守御千戸所」が設けられる。深センの地名が最初に歴史書に現れたのは1410年のことである。明代の3代皇帝永楽帝は1403年に帝位につくと、領土拡大のためにモンゴル遠征、満州の女真族を冊封(文書を授けて封建するという封建制度のことを指し、皇帝は王や候という中国の爵号を授けて君臣関係とした)、ベトナムを征服した。また宦官の鄭和に遠くはアフリカにまで及ぶ大遠征を命じた。

ヨーロッパの大航海時代を先んずること70年前に、鄭和は7度の大航海の成功をおさめ、マラッカなどの東南アジア、インド、アラブ、アフリカにまで及ぶ広範囲の諸国との交流及び交易を可能にさせ、明朝に朝貢させたことは歴史的にも高く評価される。この頃に定められた衛所制度によれば、深センは十進法による明朝の軍事単位である千戸所を賜ったことになる。千戸所とは、人数にすると1120人規模を指す。この規模の軍隊を駐留させたということは、南海における海上交易、海外交易が重要であった論拠ともなる。

16世紀に入ると倭寇が中国沿岸部を脅かすようになる。さらにモンゴルが分裂していた国内を再統一し再び力をつけるようになると頻繁に中国へ侵入してくるようになる。この時代の明朝を悩ませた倭寇とモンゴルを併称して北慮南倭と呼び、国力を疲弊させる。紀元1521年には中国史上第一回目のヨーロッパによる侵略が起こる。侵略してきたのはポルトガルで、広東一帯の海域巡視にあたっていた深センの南頭軍はこれに協力し、撃退した。紀元1565年、深センの南山半島に「南頭集落」を設立。「虎門の守衛と省庁防壁」とする。

紀元1573年、明朝は新安県を設置し、管轄官庁を南頭とする。現在で言うところの深セン市と香港を含んだ地域である。経済活動として製塩、茶、稲の生産を行う。
紀元1605年と1620年の2回に渡り、南頭を震源地とする地震が起きたことが記されている。マグニチュードや震災の規模は不明である。

::清時代::
明代の末、中国北部の女真族を統一したヌルハチは紀元1636年モンゴル人より元の玉爾を譲られて清を建国。同じ頃、紀元1644年李自成が内乱に乗じて明を滅ぼすと、ヌルハチは万里の長城を超え、李自成の軍を打ち破り、こうして中国全土を支配下においた。しかし、明朝の遺民や鄭成功などといった反対勢力の沿岸部における抵抗活動が長引き、清朝政府は沿海各省庁の境界を50里内側に移動させる「遷界」を行い、新安県の3分の2を東莞に帰属させる。紀元1684年には回復している。清朝政府は特殊政策として小作料の徴収する代わりに、耕作用水牛や農業用の種などを提供。19世紀に至る頃までには軍事的な集落形成は経済文化活動としての集落形成に変化し、その人口は22万規模にまで膨らむ。

::19世紀::
19世紀に入ると英国の植民地政策が推し進められ、中国への侵略第一歩として大量のアヘンがインドより流入する。人民に蔓延したアヘンは酷い災難をもたらし、密輸が横行。これを阻むため南頭、赤湾、沱(サンズイに守る)、九龍に大砲を設置。紀元1842年7月24日、清と英国の間で不平等条約「南京条約」が締結され、香港島は英国に占領されることになった。しかし、新安人民は夜間に英国軍艦を襲撃するなど抗英活動を続けた。
紀元1860年1月11日、香港の九龍半島尖沙咀は「北京条約」により英国に分割。後の紀元1898年4月21日、清朝政府は新界を含む香港全域を99年間英国へ租借することとなる。こうして香港と深センは分割された。帝国植民地主義と封建制度の間で深センの市民は圧迫され産業は衰え、極度の貧困に襲われる。ついに紀元1900年、圧制に対して武装蜂起する。この武装蜂起は失敗に終わるが、これに続く辛亥革命に意義と影響を持つ。

::近世から現代::
1911年広九鉄道が開通する。広州から香港の九龍までをつなぐ鉄道の開通により、物流量が増加。1924年河南省新安県と同名であるため、宝安県と改称し、県庁所在地を南頭とする。1937年日中戦争勃発。深センの東、大鵬寄りの大亜湾から中国への上陸を開始した日本軍に対し南頭人民は積極的に抗日戦争に参加、この地の闘争の中心的存在であったが、南頭が陥落した後、一時東莞に県政府が移動する。1945年日本が敗戦したと同時に宝安県も開放される。

1949年10月中華人民共和国成立。
1950年ごろより党中央政府より深セン、宝安地区は試験的に土地改革に着手することとなる。何千年に渡る封建制度下の地主所有制度を廃止し、農民所有制度へと転換しようとした。人民は1100年に渡る封建制度の圧迫から開放され、解放後人民のための農地を欲していた。1953年の末ごろには中央は農業の合同生産に関しての決議書を作成し、それによると農民が個人で土地を所有することから集団で所有する方向へと指導している。1954年宝安県では中央が3つの共同自治体を試験的に経営する。1956年宝安は惠陽地区委員会に属した。1958年には毛沢東主席による大躍進政策が発表され、人民公社化の効果を上げる。1960年初頭、毛主席は党中央に本来の共産性を進めるための再調査を提出。1級人民公社が3級に変わることも示唆し、損益については各自が負担すべきとした。これにより低迷していた農業の生産性は回復し更なる発展へと導いた。

1955年ごろから宝安では水田にて稲作が盛んに行われるようになり、二期作などの工作面積は飛躍的に伸びた。また1959年より始まった深センダムの建設は治水や土地計画などからも重要な公的事業であり、1960年3月に完成する。その後1961年冬から1962年の春先まで香港では水不足が起きており、これを補完するために深センダムより水を供給した。これより香港への水の供給は毎年6000万立方メートルに及びその水量は年々増加し、現在では3億立方メートルとも言われている。また水田農業においては沿岸部の付近の潮汐被害が及ぶのを防ぐため防波堤の建設を行った。冬季農閑期には婦女子まで参加しての防波堤建設が行われた。

1976年文化大革命終了後、県委員は宝安農業の多角化に乗り出す。養豚、養鶏、ライチ、パイナップルなどの果物の生産を始め、珠江デルタの中でも高い収穫量があった。そうして農業生産では誰もが知るところとなったが工業においてはまだまだであったことから、農業と共に力を入れる。石灰工業、煉瓦製造所、製糖工場、酒の醸造所、製紙、燐酸肥料工場、窒素肥料工場、缶詰工場など。1957年から60年代にかけては宝安県から香港への不法集団移民が頻発した。資本主義による香港農民と中国人民との賃金格差の開きが、あまりに大きすぎたため中国人民の人心が外に向かうのをとめることができなかった。

1979年3月、中央政府と広東省によって、宝安県を深セン市へと変更。広東省と惠陽地区委員会の二重の指導を受けることになる。11月には中国共産党広東省委員会により地区レベルの省轄市へと変わる。1980年5月には党中央委員会と国務院が正式に経済特区に定め、8月には全人民代表大会において、深セン市に経済特区を設置することが認可された。81年3月には副省級市に。1988年11月には国務院が深セン市が国家計画において、単独かつ省レベルに相当する経済管理権限を与える。1992年2月、全国人民大会及び常務委員会において、市政府に地方の法律法規を制定する権限を与える。現在に至る。

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