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梅州の古い町へ行きましょう!
投稿者: Webcrew_02 掲載日: 2009-6-30(4923ヒット)

「客家人」はとても有名な賢い民族である。1600年前、客家人の祖先は戦争に耐えられず中国の中央地域から山に登ったり川を渡ったりしてここに移動した。この民族は平和と安定した生活の大切さを最も分かっていると思うが、生残るための環境や更に安定した居住への防御も良く分かっている。


「古村落」は昔から民間にある遺産である。広東省梅州にある「古村落」の生態環境はその遺産を完全に守っている。そこは客家人の住宅集中地で、客家千百年の文化の宝がある。

水車町茶山村
水車町茶山村は梅県にある。梅州都心から出発して、206国道に沿ってパスで40分ぐらい茶山村に到着する。茶山村では、明朝末から中華人民共和国初めに建築された34の客家住宅が完全に保たれており、梅州地区における客家古建築が一番多い集中地である。そこに住んでいた祖先達は明朝に中国の中央地域からここに移住したが、時が経つにつれ移住者は多くなり、茶山村も序々に繁栄し、清朝末あるいは中華人民共和国初めの時には最も繁栄した。

村の中には4つの上代学校があり、そのうち女学校が一つある。伝統な文化があるからこそ、茶山村はたくさんの人材を育成した。また、黄氏の子孫の紹介によると、この村から出た有名人は例えば、数家珍氏、黄錫銓氏(清朝時代、アメリカニューヨークの領事)、黄雲輝氏(嘉応の一番金持、シンガポール4大財閥の1つ)、黄康華(インドの豪商)、黄心維(彫刻家)、黄甘英(中国婦人会の原副主席)、黄偉文(国連総会開発総署顧問)などがいる。

旅行マーケティング専門家zhengzeguo氏の見方によると、茶の木が一本もない「茶山村」は実はお茶のような濃厚な香を感じることができる。梅州の客家地区の特色は大規模な囲み部屋と古村落を持っており、山の奥に行けば行くほどその村が世の中に存在しないように静かである。しかし、偶然にそこに近寄れば、ここで多くの偉人が育成されたということが分かる文化がある。

「茶山村」に暮らしている住民は建築への保護意識を高く持っている。また、現在の住居構成から見ると、形式が様々であり、主は鍵のような四角形の囲み部屋や、棒のような四角形の囲み部屋や、宮殿のような四角形の囲み部屋などがあって、1箇所の敷地面積は少なくとも1000平方メートルぐらいで、最も大きいなものは5000平方メートルぐらいのものまである。また、部屋はほとんど2層の仕組になっている。

私達は「紹徳堂」という神社を探した。聞くところによると、この村の中で一番古い建築は明朝中期に建設されており、現在まで約500年の歴史がある。地元の人の案内のもと、やっと「紹徳堂」を見つけると神社へ向かう。神社に入る前には各自が必ず敬虔な気持ちを持って階段を登り、これは主人に挨拶を行う1つの儀式のようなものだ。

「紹徳堂」は客家地区における珍しい宮廷式の建築である。敷地面積は約5000平方メートル、建築の形はコウモリのようになっている。なぜコウモリのように建設したのか、紹徳堂の背後にある山がコウモリ山であるからだ。また、紹徳堂の壁に木が嵌めていたため、500年の風雨を経由しても倒れないという理由もある。この神社の主人は古代における高い官位を持っている人物であった。


総括すると、茶山村の建築ではそれぞれの特色と歴史を持っている。また、「資政第」という囲み部屋はこの村において唯一の中洋折衷の四角形の部屋で、「回」の形を表している。この囲み部屋には以前全国政治協商会議委員の黄甘英氏が住んでいた。また、「訪曇楼」は黄康華氏の旧居で、「大夫第」は黄新華氏の旧居、黄将軍の出身地の「培元楼」、シンガポール4大財閥及び嘉応の一番の金持の黄曇輝氏の旧居等である。

村を巡りながら知らず知らずのうちにその中の石柱と木彫りが目を引き付けた。わざとそれを見るともなしに見ていたらかなり美しい芸術品であることが分かった。また、地元の伝奇物語はもっと興味が沸いた。聞くところによると、この村にある「儒林第」の主人は男の双子を産んだことがあり、たとえば男ではなく女の子を産んでいたら、その女児はお嫁にいけば継続して男の双子を産むことができるという。また、「同徳村」の前にある古い井戸はまるで人の寿命を予知するようだ。村の中で誰か老人がなくなるたびに、この井戸の水は濁るようになるという。

また、更に驚くのはここから2キロメートルの所に古い「水車窯」が発見されたことである。水車窯は唐代における有名な青磁窯であり、タイで発見された文献の中に梅県の水車窯から出て来た「青オクラ茶碗」の記述があった。また、水車窯から出た千年程前の青磁8怪獣足は現在、国家の一級文物として梅県の博物館に収蔵されている。


雁洋町橋溪村
梅州の「雁洋町橋溪村」は明朝に建設されており、茶山村により100年ぐらい後になる。橋溪村は梅県雁洋町長教村の東側4キロメートルの所にあるが、梅町への道のりは38キロメートルであり、額ずく溪と呼ばれている。

また、記載の資料によると、400年前に、福建寧化石壁村の朱氏家族と陳氏家族は山に登ったり川を渡ったりしてようやくここで留まるようになった。時間の経つにつれ朱氏家族と陳氏家族がお互いに愛慕な気持を持って恋に落ちてしまった。このままずっと一緒に暮したい希望を叶えるため、次の後代に婚約の要求を示した。それによって、遠いところからここに移住した朱氏家族と陳氏家族はお互い助け合い寄り添って生きている。

今でも、この村はやはり和やかな雰囲気があり、小橋、溪の水、古い木、勤労の人々などがのどかである。400年の時間はここに暮らしている人々に対しまるで昨日のことのようでもある。

村の中で一番特色ある建築は朱氏の「継善楼」と「積善党」である。山と水を基本として建設した継善楼は、南方に向き中軸対称で横への四角形の構造になっている。面積は2680平方メートルで、70部屋であり、普通は「七赤楼」と呼ばれている。その他、鮮やかな特色を持っている建築の善慶楼は、既に110年の歴史を持ち、建築面積は500平方メートルで、22部屋である。構造は外向きのようにデザインされている。このデザインは客家の建築にもっと豊かな文化を齎している。

また、建築の名前から見ると、ここに暮していた人々の心理態度が分かるようになった。建築の名前の中に必ず「善」が付いていることで、あの時の祖先が善に対し如何のような気持を持っているのか想像できる。


大甫客家の民俗文化村
大甫県西河町車龍村にある大甫客家民族文化村は、客家のzhangbishi氏の旧居「光禄第」を中心として、周辺の村、山、河流、耕地、埠頭などを整合された村で、客家の風情を観光することができる。

シンガポールの総領事を経験したことがあるzhangbishi氏は、中国昔の官位である光禄という官位に至ったため、旧居を「光禄第」と呼ばれるようになった。旧居の横額は李鴻章氏が書いていたものである。建築の構造は3党4横1囲みで、18ロビー、13井戸、99部屋などである。なんと現在も子孫はそこに住んでいる。

また、zhangbishi氏の旧居を観光するのは非常に有意義である。旧居内には誰かがたくさんの清朝用品を集めており、普段なかなか見られないものばかりで、例えば清朝の役人の服装、帽子、契約書、広告などがある。またzhangbishi氏は「張裕ワイン」の創始者として、ここにはワインに関わる多大な資料と共に展覧を行っている。

それだけでなくzhangbishi氏は精神的な財産の追求も非常に高く持っている。「光禄第」の旧居の右側庭園に「無逸亭」という亭があり、zhangbishi氏は自分の考え方を全てそこに書いていた。

連州
話によると、昔中国の中央地域から南方へ移動する時、最初の経路は連州から入り、そして湟川三峡の流れに沿って、南方地域へ移動した。また、連州の古代文化がちゃんと守られており、広州の一部の古村落よりもっと魅力的であるという。

豊陽古村
4月12日、豊陽古村に到着したところは既に正午になったが、町では市が立っていた。その原因を聞いてみると、現在今までこの町は「集中の日」という習慣を残している。毎月の2、7日ごとに「集中の日」(市)を行い、その町に暮らしている人々は各自の農作物などを町の集中地へ売りに持って行くという。つまり、交易活動で自分が持っているものを他の好きな物に交換することができる。

豊陽村のリーダの案内の下、千年の歴史ある古代村落に向かって歩いた。村落の建築は殆ど本来の姿を守っているが、新しい建築を築くにしても、祖先が残した建築を損害したことはなかった。現状から見ると、自然に倒れた建築を除いて、殆どの建築にはまだ人が住んでいる。

また、記載によると、豊陽古代村は南唐朝の後期に建設されており、現在まで千年ぐらいの歴史がある。豊陽村に暮らしている人々は皆呉という氏名となっており、祖先の呉敬元氏は南唐朝後期の征伐統率である。この村にはまだ宋朝の文化景観と明朝清朝の建築が完全に残されているのだ。  

町には四つの天守がある。この四つの天守の中に東門は一番特色を持っている。全ての天守の外観は人の顔に似ているが、他の三つの天守の‘目’は円形になっており、東門の‘目’のみが違う形になっている。更に東門の中央に立って大声で話すと、エコーがかかる。こうした建築技術は南唐朝から既に運用されたものであることが分かる。

その後東門から西門に回わり込むと西門の規模が最も大きく、つきあたりは「舗頭街」である。昔の宋朝において、この「舗頭街」は当時の重要な貿易交換地になっている。この商業街を通り湖南の藍山、寧遠及び広西の賀州へ行くことができた。





連州の地下河
豊陽町から東陂町の連州地下河へ行くのはバスで30分がかかった。地下河に到着したところ、ちょうど雨が降っているが、春の雨で景勝地にもっと春の雰囲気を齎した。

地下河へ入る前に、まず壁に刻まれた「神秘な魅力的な地下河」の文章を読んで見ました。
地下河を一度に回わるのは約1時間半くらいかかるが、先に陸地を回ってから船に乗ることも出来るし、その反対の回わり方をやってもかまわない。この地下河は三層に分かれており、一番高さは40メートルとなり、一番広さは50メートルである。

ガイドさんは周辺を解説しながら案内をしている。最も印象深いのは、古代の劉禹錫詩人の画像である。陸地が終わったら、戻る時は本当の地下河を楽しめた。地下河は北から南へ伸び約1500メートルがあり、四つの山を通っており、一番広いのは10メートル、一番狭いのは4メートル、水深は7メートルとなっている。


ガイドさんの解説によると、この河には「盲魚」という特別な魚が生きているという。なぜか暗くて光がない河に暮らしている魚の視覚はゼロに等しい。

連州地下河を回わり終わったら、芝生或はサービスロビーでお茶を飲んだり、そこでお土産を買うこともできる。

湟川三峡
現在、湟川三峡を見に行きたいなら、まず龍船水門埠頭へ船に乗らなければならなくなる。実は、湟川三峡の船の水門原理と長江三峡の「五級船の水門」原理が同様なのである。

湟川三峡は龍泉峡、楞伽峡及び羊跳峡の3つの峡により構成されたが、楞伽峡を通り過ぎると、自然な舞台を見ることができる。ガイドさんの説明によれば、昔この舞台で芝居を良く行っていたようだ。

三峡を通り過ぎたら、有名な湟川八景の龍潭飛雨が見えるようになり、そのすぐ隣には「龍宮寺」という寺がある。

連州の古代文化が発達し、文化への保護も良く行っている。三峡の両岸の白滝が沢山あり、船に乗りながら日光浴をしたり、目を閉じて河の風を享受したり、鳥の鳴りを楽しむことができる。

深センから梅州までは快速列車深セン→福州線(K636/K637)、あるいは深セン→汕頭線(が発着している。また長距離バスは蛇口フェリー乗り場からの直通バス、また銀湖バスターミナルからも発着している。

列車
K636/K637 快速 深セン(21:26)→福州線(02:51) 
K9118/K9119 快速 深セン(15:00)→汕頭線(20:39)

長距離バス
蛇口フェリー乗り場→梅州 7:55、9:50、18:10発
銀湖バスターミナル→梅州 16:50から20:00の間 発

(シンセンスクエア)

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